九井諒子『ダンジョン飯』第15話におけるカニバリズムと「気分」の問題

目次

九井諒子『ダンジョン飯』3巻を読みました。以下、ネタバレを含みます。

この作品に関する感想や分析をいろいろと読んでいると、リアリティがいかにして機能しているかについて語られているものに多く出会います。
例えば第15話「雑炊」に限って話すにしても、RPG‐ヒロイック・ファンタジー(剣と魔法の物語)的な設定は微に入り細に入り丁寧に描写され、物理学的あるいは生物学的な整合が説明されています。
料理のレシピは言わずもがなで。

「剣と魔法の世界」的設定および科学的整合性

まず、そうしたリアリティがどのようなものかを、第15話において見られるものの中から箇条書きにしてみたいと思います。
死体回収屋にまつわる設定だけでも以下のように詳細にわたります

死体回収屋にまつわる設定
  • 死体回収屋が死体を発見した際、点検作業を行う
  • 死体回収屋には監督と作業員がいる
  • 死体回収屋は、死体か麻痺した生体かを判断する
  • 死体回収屋は、「小さな噛み跡」と「麻痺を回復させたパーティーが金品を紛失したと主張しているという事実」から、麻痺を宝虫によるものと断定する
  • 死体回収屋は、パーティーに対して、彼らが宝虫によって麻痺させられたということを伝えない
  • なぜなら、死体回収屋は、「麻痺の回復」を「蘇生」であると騙り、麻痺を回復させたパーティーに対して、高額の「蘇生代」を請求するからである(しかし、作業員の一方がもう一方に「なぜ隠す必要が?」と尋ねており、これでは辻褄が合わないので、ここはわたしの誤読である可能性が高い)
第15話における主なリアリティおよび具体性
  • 死体に「霊避けの魔術」を施すというマナー的行為
  • 水辺に住む魔物のヴァリエーションおよび魔物たちの攻撃方法
  • 人魚の歌を聴いた者は、それに魅了され、意識を奪われ、水中に引きずり込まれる
  • 耳をふさぐ(聴覚を奪われる)とき、触覚および視覚で状況を判断する(飛び散った血が頬につく〔触覚〕、頬についた血を拭った手を見る〔視覚〕)
  • センシにだけ魔法(たぶん水上歩行)が効かない(センシの髭には様々な魔物の脂と血が染み込み、魔法に対しての絶縁体となっていたが、第14話の中で、ケルビーの脂から作った石鹸で洗浄した結果、魔法が効くようになったはず、なのだが)
  • 水上歩行の魔法がかけられている麦は水を吸わない(術者が死ねば魔法は解ける)

第15話のハイライトは人魚(魚人とも呼ぶ)を食べるか否かについてのライオスとチルチャックの攻防なんですが、ここでは生物学的な整合が図られています。人魚に関する諸々の設定を列挙します。

人魚に関する設定
  • 人魚には哺乳類のものと魚類のものが存在する(わたしたちがよく知っているタイプの人魚は哺乳類のほう)
  • 魚類のほうの人魚は、顔が魚で、エラがあり、産卵するためにヘソや乳首がない
  • しかし、腕や手が人に似ていて、槍を持っている(槍を扱うだけの知性、槍を鋳造するだけの知性を持つ?)
  • 人魚の頭に生えている海藻の根は、人魚の頭に固定するためのものであり、そこから養分を取り込むことはない
  • 人魚はこれを擬態に用いる
  • 海藻に魚卵が付着している(人魚が卵を頭の海藻で守っているということを思わせるが、確かではない)

カニバリズムへの「気分」

どうやらライオスのパーティーは、「亜人」系の生物を食べないということで合意しているようで、ライオスとチルチャックとのやり取りは、魚類の人魚を亜人と見なすか、魚類の人魚を食べるか、というところから始まります。

  • ライオス「分類的には牛や豚より人から遠い」
  • チルチャック「気分的に嫌だ」

チルチャックは人魚の頭に生えている海藻を食べることについても問題視しますが、ライオスは海藻が人魚から養分を取り込んでいないということを理由に反論します。

このような議論は、ビーガンやベジタリアンをめぐる状況と重なってきます。そして、魚類の人魚が亜人であるかどうかという議論は、端的には当然カニバリズムを指しています。これをさらに敷衍させて考えると、イルカ漁問題をめぐる議論と並行させることもできそうです。

ここで、ライオスは食欲に忠実で、美味しいものを愛する自然児のように描かれていて、チルチャックはカニバリズムへの接近を禁じる理性的な人物として描かれています。しかしチルチャックは、人魚でも魚類のほうだということを理解した上で、「気分的に嫌だ」と、理性よりも気分という身体的な反応に従っているようでもあります。

「食べない」から「食べよう」へ

魚卵が人魚のものであるかどうかが不明なまま、最終的にチルチャックはそれを食し「普通」の味だと感じます(あたかも「普通ではない」味を想像していたかのように見受けられます)。

それまでチルチャックは、人魚(魚類であっても)を食べるのがカニバリズム的であると感じ、この感覚(「気分的に嫌」)と反カニバリズムという理性を結びつけて、食べないという判断を下していたわけですが、マルシル(パーティーの中ではチルチャックとともに魔物食に慎重)が美味しそうに魚卵を食べているのを見て「気分」を変えます。

魚類の人魚を「気分的に」食べなかったチルチャックが、食べようという「気分」になって、食べてみる。そしてそれは普通の味で、安心する。

はじめは気分によって食べず、後で気分によって食べたチルチャックは、「気分の問題なのかなあ」と自問して第15話が終わるわけですが、果たしてチルチャックが問題視しているのは、単純に、「食べようという気分になったからといって、人魚の卵を食べるというのは間違っているのではないか?」ということなんでしょうか?

あるいは、魚卵を食べるほうへと向かおうが、食べないほうへと向かおうが、気分で判断するということの功罪を念頭に置いていたりするんでしょうか。

理性にも気分にも従属することのない行動

チルチャックの疑問の答えは、読者に委ねられています。

彼が悩んでしまった理由の一つに、同じ気分でも、食べるほうの気分と食べないほうの気分とでは、「他者と混交・共有する気分」と「自己の独立した気分」という気分の種類の違いがあった、ということが挙げられるような気がします。
例えば、わたしが感じたことを熟慮せずにそのまま述べるなら、

  • 他者と共有する気分というのは、ここでは他者とある意味で一体化したいということであり、それは一種のエロスであり、共同体構築の欲求であり、さらには社会全体の構築へと向かうような推力なのであって、
  • 自己の独立した気分というのは、その精神がカニバリズムへの感覚を研ぎ澄ませた結果、カニバリズムを感じ取る器官をその身体において仮想的に生じさせ、そこで「カニバリズム覚」なるものが刺激されたことによって与えられた不快感なのだろうと。

いずれにしてもチルチャックは気分という身体的な反応を優先させ、それを行動に結びつけています。

しかし、パーティーの中で、普段はツッコミ役である彼の自己意識は、身体的な反応を優先させる自らを反省するかのように、「気分の問題なのかなあ」と自らを理性の側に引き戻すかのような疑義を漠然とですが呈しています。

そしてここに一つの良識を見出すことができます。これは決して理性への回帰を打ち出すものではなく、理性にも気分にも偏らない、というある種の迷いの表明であるというような良識を。

チルチャックは、理性と気分の「あいだ」で、行動がそれらに従属するものではなく、行動として自律的な状態であることが可能であるかをテストしているわけです。

そうしたことを、この分析のような野暮ったくて長ったらしい言葉を費やすことなく、この作品は奥ゆかしく潜行させ、そしてその奥ゆかしさの中で不意を打つ瞬間的な閃光のようなものとして提示していると感じます。

『ダンジョン飯』における笑いの一例

最後に蛇足ですが、第15話の「笑い」について、ほんの少しだけ触れます。

ライオスが死んだ冒険者の所持品を使って料理を作ったことに対して、マルシルがツッコミを入れる場面、チルチャックは、それまでライオスの様々な常識はずれの言動にツッコミを入れてきたのに、そのことを指摘するのは忘れていたと反省し、「さすがマルシル」と感心します。

ところが直後のコマで、チルチャックの感心の対象であったマルシルは、「まあ作った物は仕方ないけど」と瞬時にして料理を食べる気分へと切り替わっていて、それに対してやや非難がましい目を向けるチルチャックが描かれています。

こういう笑いの作り方、スピード感があるなと。

ダンジョン飯 3巻 (ビームコミックス)

ダンジョン飯 3巻 (ビームコミックス)