自然発生するフィクション:「ジャン=クロード・ルソー レトロスペクティヴⅢ」質疑応答@神戸映画資料館

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2016年11月23日、神戸映画資料館(新長田)にて開催された特集上映「ジャン=クロード・ルソー レトロスペクティヴⅢ」の質疑応答を採録してみたい。この日は『ローマの遺跡』(1989)、『彼の部屋から』(2007)、『Keep in Touch』(1987)、『愛の歌』(2016)の4作品が上映され、その後に質疑応答の時間が設けられた。

採録といっても、ジャン=クロード・ルソーがフランス語で話したことを通訳が日本語に意訳し、それをわたしができる範囲でノートに書き留め、さらに多少の整形を施しているので、もしかするとジャン=クロード・ルソーが実際に話した内容とは異なるものになっているかもしれない。つまり正確さは保証されない。

だからこの採録はおよそフィクションだと受け止めてもらえればと思う。




「ジャン=クロード・ルソー レトロスペクティヴⅢ」質疑応答


目次

わたしがシナリオ無しで映画を作る理由

わたしは1973年に初めてアメリカを訪れショックを受けました。それから何度かニューヨークを訪れ、1976年にはそこに住むことになりました。

わたしはそこでシナリオを書いていました。そしてそのシナリオに『田舎でのコンサート』というタイトルを付けました。同名の絵が存在するんですが、それはジョルジョーネによって描かれたものだと言われています。

70年代末にパリに戻ったわたしはこのシナリオを(ある助成金の審査に)提出したんですが、受け入れを拒否されてしまいました。「あまりにも文学的すぎる」というのが彼らの言い分です。

しかしわたしは、このシナリオは文学とは真逆のものだと思っていました。なぜなら、そこにはイメージしかないからです。そのイメージは何年もわたしの頭の中にあったイメージです。そしてこのシナリオを説明するのは難しい。なぜなら、それはシナリオそのものだからです。さらにそれは、「このシナリオは不可能である」という物語であるからです。

助成金の支給が拒否されたため、このシナリオは実現しませんでした。そしてこの経験が、シナリオ無しで映画を作ることををわたしに決心させました。それから多くの映画を作りましたが、すべてシナリオはありません。

頭のなかにあるイメージを現実の中に探すのではない

初めて映像を撮影したときは、両親が持っていたスーパー8*1のカメラを使いました。

映像を撮るには二つの方法があります。一つは、シナリオに従って映画を撮るという方法です。シナリオに従って映画を撮るということは、頭のなかに映像を作ってそれを撮るということです。このことは、真の映像を撮る妨げになります。

もう一つの方法は、頭のなかにあるイメージを現実のなかに探すのではありません。そういうことをしなければ、映像自体が現れてきます。映像が自分をつかむんです。何かが現れ、それが自分をつかむんです。わたしがイメージをつかむのではなく、イメージがわたしをつかみます。大切なのは意志ではなく、意志を捨て去ることです。

最初のシナリオの失敗以降、まずアイデアがあってそこから映像を撮るのではなく、今述べた方法で映像を撮り続けました。そして1983年に初めて映画を完成させました。

意味によって音を入れるのではない

会場からの質問:
『Keep in Touch』のなかで、道に鳥がいるシーンがありましたが、鳥の鳴き声だけではなく、ピンボールのような音が入ったり、無音になったりしていました。それらはどのように関係し合っているのでしょうか。


自分のなかで感じた「空虚」がピンボールの音です。カモメの映像と直接的な関係はありません。そして、カモメの鳴き声は同時に録音したものではなく、後で入れた音です。これは技術的な問題なんですが、スーパー8で映像を撮るとき、音は同時に撮っていません。

うまく同期するということ。スーパー8は1秒間に24コマの映像を撮ることができます。これに音をのせるわけなんですが、ピタっと合う音というのがあります。見つけたら、それに決めてしまいます。わたしが音を選ぶときは、サイズ的にも映像と音が同期するということが大事です。意味ではありません。

スーパー8で最後に撮ったのは『閉ざされた谷』ですが、フィルムにアフレコで音を入れることで自分の映像が損なわれてしまうのではないかと本当に不安でした。現在では、ヴィデオで撮ったものなのにあたかもスーパー8で撮ったかのようにみせるためにわざとスジを入れたりしますが、スーパー8のときは、フィルムにスジが入ってしまわないかと恐れていました。

頭で理解したときにはもう遅い

わたしの最初の作品は『窓際で手紙を読む若い女』です。この作品ではフェルメールの絵画を引用しています。二作目は『ヴェニスは存在しない』です。そして三作目が『Keep in Touch』で、これはニューヨークで撮りました。

この作品は、映画を作ろうという意志も、シナリオもなく作りました。ニューヨークでいくつかのイメージが現れたので、カメラで撮ってパリに持ち帰り現像してみたところ、理解はできませんでしたが、感じることはできました。大事なのは理解ではなく、感じることです。頭で理解したときにはもう遅いんです。感じることが大事なんです。

『Keep in Touch』は短い作品ですが、映画は長さではありません。わたしにはフィルムの缶が畳のようにもレンガのようにも思えます。

自然発生するフィクション

最初に何かを作ろうという意志があったのではなく、最初にイメージが現れ、それが勝手にフィクションになったのです。自分が何かを作ったのではなく、イメージが作ったのです。

『Keep in Touch』の缶は、映像と留守電のメッセージが出会って生まれたものですが、留守電の音は映像を撮っているときに生まれたものではありません。真の映像を作るときには、イメージから音が、そしてそこからフィクションが自然にできてこなければなりません。

一つの話が必要です。映像と音が出会うことで話ができてきます。何も意味が無いように思えるシーンがあると思いますが、意味が無いということは、鑑賞者が自由に受け取ることができるということです。意味をできるだけ少なくすることによって、鑑賞者はより多くのことを受け取ることができると思います。

例えば『ローマの遺跡』では5番目に「土曜日」というパートが置かれていますが、全7パートあるので、それぞれ一つの日として、その前が金曜、その後が日曜という一週間のストーリーを作ることができますが、それは決して強制力を持っていません。

[2016年11月23日]




4作品どれも楽しめた。質疑応答も。ただ、やはり質疑応答というのは、あるいは質問者の典型的な振る舞いというものがあって、いやどれも例外的なのだが典型的に見えてしまうような収束性があって、そういうものというのは、いつもわたしの心をキュッとさせる。

そういうのがいけないということではなくて、それだから楽しいということだ。表現されない気恥ずかしさは極私的なサスペンスとしての一種の遊戯だ。

ちなみに今年、コダックが新しいスーパー8カメラを発表した。1月の発表時には秋に発売が開始されると説明されていたが、現時点ではまだのよう。
Super 8 Camera | Kodak


*1:8ミリカメラおよびフィルムの一種。シングル8より発色が良い。