古典的な問いの背後にあるもの:ジャン=クロード・ルソー『ローマの遺跡』、『彼の部屋から』

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目次


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神戸映画資料館で行われた「ジャン=クロード・ルソー レトロスペクティヴⅢ」の質疑応答の採録(フィクション)を昨日投稿した。自分のための記録として映画の感想も投稿しておこうということで、ルソー監督の発言についての感想も併せて今回書いてみようと思う。

『ローマの遺跡』(1989)、『彼の部屋から』(2007)、『Keep in Touch』(1987)、『愛の歌』(2016)の4作品を鑑賞したが、この中から『ローマの遺跡』と『彼の部屋から』を取り上げることにしよう。

『ローマの遺跡』(1989)

会場で配布された資料(同志社大学でのインタビュー[2013年11月1日]抜粋)で改めて確認すると、この作品は以下の全七章で構成されている。五章の途中に「土曜日」というパートが、そしてわたしの記憶によれば六章か七章の途中に「夢想」というパートが挿入されている。

  1. ラ・ロトンダ
  2. ピラミッド
  3. トラヤヌスのフォルム
  4. 崩壊した橋
  5. コロッセオ
  6. コンスタンティヌス凱旋門
  7. 戦車競技場跡

ルソーの歴史観:ジョルジョーネ、バロックベケット

揺れる丸い穴。穴から空が見える。カットが変わるごとに、丸い穴はより大きくなっていく(画面の領域をより広く占めていく)。鳴り響く音。「雨が降っていた。わたしたちは教会に入った。教会ではなかった」というナレーション。まるでベケットの『モロイ』のよう*1

三角のピラミッド。建物に挟まれた通路。これらは画面の中に人などの比較となるものが現れるまでは大きさがはっきりしない。正方形の暗闇。そこに人が入っていったり、そこから人が出てきたりと、後に『閉ざされた谷』において引き継がれてゆくようなイメージであるように思える。それは、フクスム・スブニグルム(暗い地)の中に置かれながら生じてくるような、カラヴァッジョやレンブラントといったバロック期の画家による仕事を思い起こさせるものである。ちなみに『閉ざされた谷』においてルソーが想起したのはジョルジョーネであったらしい。

閉ざされた谷とは、わたしにとって、距離が失われ、奥行き(perspective)も持たないが、底知れぬほど深い、そんな場所のことだった。ジョルジョーネの『嵐』の登場人物たちがソルグ河の岸辺に収まっていてもおかしくない、そんな一枚の絵。その場所にいることは、わたし自身がフレーム=額縁のなかに入っていくことだった。
出典:ジャン=クロード・ルソーとの対話 - 明るい部屋:映画についての覚書


崩壊した橋はカットが変わるごとに画角は同じままで夜が更けていく。明るいときに判別できていたものが判別できなくなり、川の水面が訴求力を高める。

コロッセオのほんの僅かな一部は緑色の網か何かで覆われている。コンスタンティヌス凱旋門は補修工事中であるらしく全体が網なのか足場なのかそのようなもので覆われている。戦車訓練場の中央には一本の木、そのすぐそばには一本の街灯が立っている。どの場所でも人々が行き交っている様子が捉えられている。最後にまた丸い穴。

映像との関係があるように感じられる音もあれば、そうでないように感じられる音もあり、明らかにアフレコで入れられたと分かる音もある。音はこの映画を感じる上で非常に大きな要素であるということが理解される。先程の引用と同じ『閉ざされた谷』についてのインタビューの中で、ルソーは音について以下のように語っている。

この映画の音は、イメージと似ていないにもかかわらず、非常にハッキリとイメージに定着していて、完璧に同期している。だがそれは、「同期」(synchronisme)という言葉の通常の意味においてではない。つまり、音がイメージと同時に録音され、言葉が唇の動きにぴったり合っている、ということではない。
出典:ジャン=クロード・ルソーとの対話 - 明るい部屋:映画についての覚書

フィクションの出発とヨーロッパ史についての理解

再び配布資料によると、三章までは幾何学的だが、四章以降には「そこからフィクションが出発できる要素が組み込まれている」と説明されている。

4番目の最後の巻は夜で終わり、コロッセオでは金曜の夜に教皇が十字架を持った人々のパレードに向かいます。そこに様々な言語の祈りが聞こえます。ここは手持ちカメラで撮っています。ここで「土曜日」という字幕が入って、場合によっては今見ている映画をキリスト教的な一週間として見る可能性が突然開けます。それは最初の部分の完璧な幾何学的ハーモニーを動揺させ、打ち壊す効果があります。
出典:ジャン=クロード・ルソー インタビュー(「ジャン=クロード・ルソー レトロスペクティヴⅢ」配布資料:於神戸映画資料館


同日の質疑応答での発言に依拠すると、「今見ている映画をキリスト教的な一週間として見る可能性」はイメージと音によって自然発生するものであり、さらには鑑賞者にこの物語への従属を促すものではない。それでも作品にはタイトルが与えられ、各章もまたそれぞれの名前を持たされている。

この引用において語られていることは、キリスト教文化のことをほとんど知らないわたしにとって、ディテールを思い描くことの難しい事柄に拠るものである。そして各章の題名には馴染みのない言葉が含まれている*2 *3

しかし歴史的な遺構ということは理解される。少なくともルソーはこれら遺構から生じるイメージに「捉えられ」、カメラを回した。ある意味で、愛着のために何度も同じ遺構を訪れる歴史好きの男性とそう変わりがないようにも思える。もしかしたら歴史上のロマンに胸を熱くする中年男性の一人であるかもしれないというように。

より根源的なこと:イメージは「自然に」ルソーをつかむ

映像に写っているものは、ヨーロッパ史というコンテクストを持っている。日本人が日本史における遺構に接して、歴史的事実に現代を投影したり連続させたり、ノスタルジーを感じたりドラマを覚えたりするのと同様の事柄を、ヨーロッパ人とヨーロッパ史にそのまま移行させるのはさほど難しいことではない*4

こんなことを書くと怖い人から「本質を見誤った無知な人間が恥ずべき持論を…」と怒られそうなので、「あなたが正しいです」と言っておきたい。実際のところ、ルソーが歴史ロマンに胸熱な多くの中年男性の一人であったとしても、そのことは大した問題にはならない。

仮にルソーがそうであったとしても、彼のイメージの強度を勘案するならば、そのことが彼のイメージに対する態度に介入するのは難しいように思われる。しかしイメージが彼をつかむ理由にはなり得る。彼が歴史ロマンおじさんであるということが理由になり得るのである。イメージが彼をつかむ理由に。

遺構がルソーの眼前に立ち現れる理由が伊達や酔狂であったとしても、学術的な関心あるいは芸術的な感性であったとしても、映像の価値はそれほど変わらないだろう。なぜなら、イメージが彼をつかむということを、彼は直接的にはコントロールすることができないからだ。イメージは「自然に」彼をつかむ。眼前に立ち現れたものに彼は捉えられる。そしてそれを映像に収めるということが彼の芸術的選択となるのである。

映像の断片化

もう一つ、この作品において特徴的なのは断片化された映像である。ルソーは次のように述べている。


この作品ではカットが変わるごとに黒味が挿入されている。一つのカットの自立性を保つために、黒味によって前後のカットとの連続的な関係性を断っているのである。この後に見た『彼の部屋から』では、黒味を使用する機会は大きく減少したものの、断片化という側面はより複雑化しているように感じられた。

わたしたちは場を俯瞰することが許されず、空間的には非常に限定されたイメージのみを見ることが許される。時折広い視野が確保されたかと思うと、そこには鏡などによる何らかの反映が含まれており、わたしたちの視覚はそこで「広いよりも広いもの」へとさらされることになる。ルソーのイメージはわたしたちのスケールからことごとく遠ざかっていくのである。

映像だけではなく音声もまた断片化しているのだが、同日の質疑応答でルソーが話していたことを考えるならば、それをイメージの孤立と同様に考えていいのかわからない。おそらく異なる論理の中に置かれているような気がする。これらの考察についてはまた別の機会を設けてみてもいいかもしれない。

『彼の部屋から』(2007)

例えば終盤のワンシーンからこの作品に立ち入ってみよう。

初老の男性が自宅でラシーヌの『ベレニス』を音読している。幅の狭い肘掛けが付いたお気に入りのソファーに腰掛け、コーヒーカップと灰皿を乗せた陶器の盆を狭い肘掛けに置き、煙草を吸いながら読んでいる。別のときには、水か酒の入った円筒形の細長いグラスを、危なっかしくもコップの直径とほぼ同じ幅しかないその肘掛けに置いて読んでいる。映像は男の肩から下を写している。肘掛けは狭いが、表面が湾曲しているわけではなく、そこに置かれたものは安定して留まっている。

知覚と行動のルソー的「あいだ」

しかし映画の中の危なっかしく感じられるものは、危惧されている状況へと必ず自らを向かわせるものだというふうに相場が決まっている。ソファーの男は肘掛けの上の陶器の盆を押してしまい、コーヒーカップと灰皿もろとも落としてしまう。盆は幾つもの破片となって床に散らばるが、男はすぐに動こうとせず、しかし平静を装っているようでもなく、多少は考えた程度の時間を経てようやく動き出す。

盆は割れたが、カップと灰皿は割れていない。男はそれが目的ではないかのように割れた盆の前にかがみ、できれば何もやりたくはなさそうな緩慢な動きで灰皿を拾って肘掛けの上に置き、陶器の破片を不器用そうに拾い集め、それを持って画面外に去ってゆく。戻ってくると再びソファーに腰を下ろし、間を持て余すかのようにスタンドライトを点灯させ、時々足を僅かに動かしたかと思えば静止し、手を僅かに動かしたかと思えばまた静止する。しばらくすると点灯させたスタンドライトを消し、今度は先程よりも動くための理由を感じさせるように立ち上がって画面外へと出てゆく。ハンディタイプの掃除機を持って戻り、先程盆が落ちた場所を丁寧に吸うと、掃除機を片付けに再び画面を離れる。男はようやく安心してソファーに座ることができる。

この場面は一見すると知覚と行動の図式に従ったものであるかのように映る。なぜならこの場面には表情を提出するためのクローズアップが用いられていないからだ。にもかかわらずこの映像は知覚と行動の「あいだ」を、クローズアップによる表情の媒介を用いることなく、肩から下の緩慢な動きのみによってわたしたちに開示している。

鏡の中のイメージの識別不可能性

『ローマの遺跡』にしてもそうなのだが、この作品では鏡がさらに多用されている。鏡のある風景は長回しのフィックスショットで捉えられ、長回しの効果によって鏡に写っているイメージが鏡に写されている実際の三次元空間と反転するように感じられる瞬間をもたらす。

レストランの中では鏡に写っているイメージだけが画角に捉えられ、鏡に写されている三次元空間は捉えられていない。このとき、わたしたちに馴染みのある物理学は、どのようにしてこの映像の中で適用されることが可能となるだろうか(それは困難である)。

つまり、鏡の中のイメージは何かの反映ではなく、何かの反映ではないままに生じているものである。鑑賞者がここに物理学を供給することは可能であるが、イメージ自体が何かの反映ではなくなってしまう限り、それが物理学上の因果律を鑑賞者に強制することは不可能となる。

さらに、男は『ベレニス』の本を手に持っていて、そこに書かれた文字を目で辿りながら声に変換していく。この行為は映画の始まりから終わりまで断続的に捉えられており、そのあいだに文字と声の前後関係は不明瞭な状態となってわたしたちの認識する因果律を無力化してしまう。声によって文字を音声化しているのか、文字によって声を記録しているのか、わたしたちはそれらを識別する理由を映像の中に見つけられなくなっている。

反映の転倒の共鳴が呼び起こす古典的な問い

反射によって生じるそうしたもの(鏡の中のイメージ、文字を読む声)は、今述べたように因果律を逃れ、反対にそれら自体がアクチュアリティを帯びることとなる。今度はそれらが(何かの反映ではなく)現動的なものとなって独立し、それらの反映を探し始めるだろう。

川辺のダンスシーンでは、ダンスが音楽の反映であるかどうかも曖昧であり、画面の中央にダンスを教える女と教えられる男が位置しているように、ダンスそのものが他のダンスの反映であるような可能性もまた示されている。

このような反映の転倒の繰り返しは、最終的には視覚における反映の転倒へ帰すこととなる。それは非常に古典的な問い、つまり「わたしが対象を見ているのか、対象がわたしを見ているのか」という問いである。映像の共鳴についてのルソーの発言を確認しておこう。

映像とは観るものに「捕まえられる」もので、想像されるものではありません。そういった映像が互いに共鳴することで、その時点で、物語が喚起されるのです。それらの映像とは互いが「繋ぎ合わされる(raccord)」のではなく、「寄り添い合う(accord)」ものなのです。それによって映像のボリュームが発生するのだと思います*5
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今述べたような問いが浮かび上がってくるのも、もしかすると彼の言う一つの物語なのかもしれない。…と思ったがどうだろうか。問いというのは物語であるというよりは「概念」であると言ったほうがいい。しかしルソーは「概念」ということも含めて「物語」と言っているような気もしなくはない。要考察。

非意識的な持続

例えばそのとき「わたしが対象を見ている」ということを認識するのも、「対象がわたしを見ている」ということを認識するのも、「わたしではない」。わたしではない誰か、あるいは誰かですらない。

この方向の議論をここで深めることは控えたいが、ルソーの痕跡とも言える長回しのフィックスショットの連続において、なぜそんな問いが生じるのかについてのある種の直観を確認することができる。

簡単に言うとそれは、映像が持続しているのは、映像そのものが持続しているからなのか、あるいはそれを見ているわたしが反省的に同じものを見ているということを意識するからなのかという問いとしての素朴な瞬間的気づきである。

しかし実のところ、ここに発見されるのは因果律(映像の持続が視覚に届く)でも、因果律についての承認(反省的に同じものを見ているということを意識する)でもなく、承認によってようやく可能となるような因果律ですらない。そうではなく、反省や物理学による持続とは異なる別の持続、つまり事後的にしか確認されないような非意識的な持続である。

このことが語っているのは、反省的なものとなる以前の視覚それ自体においては(ルソーの言葉を鑑みて言うならば)物語が許されていないということだ。わたしたちは反省する前に既に映像を見ている。ルソーの言葉(を翻訳した通訳者の肉声)が思い出される。

大事なのは理解ではなく、感じることです。頭で理解したときにはもう遅いんです。感じることが大事なんです。
出典:自然発生するフィクション:「ジャン=クロード・ルソー レトロスペクティヴⅢ」質疑応答@神戸映画資料館 - plastic21g

関連情報

以下のサイトで、2014年までのルソー作品のそれぞれの静止画を一つずつ見ることができる。
www.derives.tv


以下は、日本におけるルソー批評の第一人者であると同時に日本へのルソーの代表的紹介者でもある赤坂太輔氏のインタビュー。
赤坂太輔氏インタビュー | レポート|神戸映画資料館


今回ルソーのことをネットで見て回っていたときに出会ったあるブログには、ルソーのことを評価したストローブ=ユイレについて、「ストローブ=ユイレ」じゃなくて「ユイレとストローブ」と表記すべきだと書いてあった。
uoh.seesaa.net


*1:ルソー『Saudade』(2012)には、ベケットの『オハイオ即興劇』を思わせるような体勢をとる男性が登場する。

*2:「ラ・ロトンダ」とは、アンドレーア・パッラーディオが設計したルネサンス期のヴィラである。司祭パオロ・アルメリコが引退後に居住した。 ヴィラ・アルメリコ・カプラ - Wikipedia

*3:「フォルム」とは古代ローマ都市の公共広場のことで、帝政時代のフォルムは一般的に四周をバシリカ元老院、神殿などの公共施設や列柱廊で取り囲まれた計画的なオープンスペースとなっている。フォルム - Wikipedia

*4:もしかするとルソーの期待とは離れてしまうのかもしれないが、日本人が日本の歴史理解の経験をこの作品に応用したとしても、それはそれで構わないとわたしは言いたい。それぞれの鑑賞者はそれぞれの「自然」と出会うに違いないからだ。

*5:もちろん引用中に述べられている映像の共鳴が一つの映像の中の共鳴ではなく複数のカットの共鳴のことであるということは理解している。わたしがこの引用において言及しているのは、反映の転倒が現れている複数のカットの共鳴についてである。