M-1グランプリの審査・採点システムに関する所感:「序盤低評価問題」について

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目次

 

M-1グランプリにおいて、審査結果に対する不満や批判はつきものである。今年も例年通り、人々が不満を糧として自己表現に勤しんでいるのを見かける。わたしもそうした人々の一員として、M-1グランプリの審査・採点についての所感を記してみたい。

審査批判形成の非理性的プロセス

お笑いの賞レースにおいて、実際に公平性が話題として世の中に大きく取り上げられるようになったきっかけは、実はM-1ではなく、おそらく中山功太が優勝した2009年のR-1ぐらんぷりや、審査員に制作畑の人物*1を起用したTHE MANZAI、そして準決勝敗退した芸人に審査させたキングオブコントであったような気がする。

批判の矛先の多くは、「審査員にふさわしくない人物が審査をしている」ということ、あるいは「優勝者よりも面白い演者がいた」ということなどに向けられている。こうした批判のほとんどは、「優勝者よりも面白い演者がいた」という個人的な意識を肯定するための理由として「審査員にふさわしくない人間が審査をしている」という責任者の設定を行うことによって形成されている。

このような非理性的な批判であっても、世論として認められるほど大きなムーヴメントになれば、現在の保守的なテレビ業界は反応せざるを得ず、審査員を変更するなどして批判をかわさなければならない。一部の批判内容は、何か今年の紅白歌合戦の出場者の選出に関する議論と類似しているように感じられる。

審査員の出身地、所属、年齢のバランス

今年もやはり個人の採点や審査員の資質に関する議論が起こっているようだが、審査員の関西色、吉本色の強さといった、審査員全体の総合的な特性についても批判の目が向けられているようである。東西のバランスは、M-1の第1回大会において見られたように、日本のお笑いの審査における継続的課題である。バランスを欠くとすぐに陰謀論のようなものが同時多発的に生じる。以下に、よく話題に上る「審査員選定についての批判」を列挙する。

  • 関西出身者が多い
  • 吉本所属者が多い
  • 若手が少ない(あるいは、関係性が近く採点しにくいため、若手は避けるべき)
  • 別の畑の(演者ではない)人間が含まれているということの是非
  • 一般投票の是非
  • 大会敗退者による投票の是非(キングオブコント)

これを見ると、出身地、所属、年齢にばらつきを持たせるということが望まれているようだ。確かにこれまでM-1ではずっと東西のバランスは考慮されてきたように思われる。例えば第4回大会では、一般的には関東系と考えられている審査員のほうが、関西系の審査員よりも多く、プロダクション的にも吉本所属ではない審査員の数が吉本所属の審査員の数を上回った*2

審査員に若手が少ないということや、若手のほうが世代的に現在の笑いを正しく判断できるのではないかという期待から、2015年には歴代の優勝者を審査員として迎えたものの、好評とはいかなかったようである。そして今年は再びベテランが審査を務めることになった。人数は5名(現在のキングオブコントと同数)。一人あたりの点数の比重は以前よりもはるかに増した。

審査員が再びベテランに戻ったり、かつての問題点が再び議論されている現状を見ていると、審査員選定の問題点は一通り洗い出されたようにも思える。選定問題がおよそ解決されたとき、審査に不満を持つ者は、審査員個人の採点感覚がズレているという主張に陥ってしまう。

はじめの3組の点数が伸びないという問題

実際のところ、審査・採点に関してこの大会が抱えている最も大きな問題は、登場1組目から3組目までの点数が、4組目以降と比べると明らかに伸びないという傾向である。以下の表の数字を見ると、このことは決して偶然ではないように感じられる。

登場順別、M-1グランプリで3位以内に入ったコンビ数(2001年~2016年)

登場順 3位以内に入ったコンビ数
1番目~3番目 5組
4番目~6番目 16組
7番目~9番目*3 15組

最初の3組の点数が伸びないという問題(序盤低評価問題とでも言っておこうか)は小さな話題としてかなり前から取り沙汰されていたのだが、番組が視聴率的に成功しているからなのか、そしてネット上で大きな問題として取り上げられないからなのか、番組からはこのことについて考慮する兆しすら感じられない。

ちなみに、この問題と非常に近接した「トップバッター不利説」について言及している記事があったので紹介しておきたい。
kusakimuryou.hatenablog.com

おそらくこうしたことはほとんど意識されておらず、仮に意識されているとしても、それは番組の「システム」の問題として捉えられている。換言すると、「人的な」問題ではない、と捉えられているということだ。つまり、人の問題であれば責任が問えるが、システムの問題となった途端、人々の責任追及欲は着地点を失ってしまうのである。

この件と比較すると、話題に上がることの多い審査員個人の適性や陰謀論などは、この大会を見た人が個人的に最も面白いと思ったコンビが優勝にふさわしいと思うあまり、彼らがそれを公的なモラルとして認めさせるために用意したエクスキューズあるいは怪しげな論拠であるに過ぎない。

競技とショーのプライオリティ

「序盤低評価問題」の構成要素を考えてみたい。例えば芥川賞やカンヌ映画祭など、多くの文学賞や映画賞では一作品を読み終えたり鑑賞し終えたりした直後に採点することはなく(私的に採点することはあっても)、すべての作品を鑑賞した後に審査員全員で議論し、おそらくその中で投開票したりもしながら、票数を絶対視することなく話し合いの中で審査結果を決めていく。対してM-1では一つのネタを見終えた直後に採点する。審査では話し合いは禁じられており、それぞれの審査員個人による採点の合計によって結果が決定する。

ネタを見た直後に採点するならば、ネタを見るのも採点も段階的にならざるを得ない(それが時間の定めというか、ごく普通の理なので)。番組構成上の理由(今までこれで上手くやってきた)が大きいのだろうが、どのコンビについてもネタを見てから採点するまでの時間が同じであるということは、確かに公平性の一つの要素になっていると言える。しかし、上の表の数字の差を見ると、公平性が保たれているようには思われない。というか、どう見ても公平ではない。

生放送であるということも、制作サイドにとっては重要な売り文句であるのだろう。それは、審査の透明性を訴えるための非常に単純で分かりやすい理由としても機能している。確かにM-1グランプリという番組は「いかにして審査の公平性を損なわないようにするか」ということに苦慮しているように見受けられる。繰り返しになるが、2001年、第1回大会のおぎやはぎに対する点数への反省から、それは既に始まっていたのだろう。しかし第2回大会以降、2010年に一度M-1グランプリが終了するまで、対外的には一度も決勝の審査方法が変わることはなかった*4(もちろん、審査員のメンバーは毎年少しずつ異なっていたが)。

内部的にどのような取り決めがあるのかについては、わたしたちには知られることはない。例えば、M-1発足時の話であるが、ラサール石井の著書には以下のような記述があるらしい。

ラサール石井の著書「笑いの現場 ひょうきん族前夜からM-1まで」(角川SSC新書、2008年)によると、島田紳助から出番前の打ち合わせで「各審査員とも、最低でも100点満点で50点は入れて欲しい」という提案があったという。その理由は「誰か1人が極端に低い点数をつけると、その影響で他の審査員が高得点でも脱落が決定してしまう。それではダメージが強烈過ぎる」。この採点基準は、第2回以降も、ある種の暗黙の了解として守られ続けているとのこと。
出典:M-1グランプリ - Wikipedia


話が逸れたが、一ネタ終わるごとに採点するのも、生で放送するのも、ショーとしての側面と視聴率を上げる(あるいはなるべく下げない)という側面からそう決定されている。生放送の緊張感、目の前に審査員がいて演技直後にその場で採点されるというライブ感、そして敗者復活戦を勝ち上がって会場入りするコンビの臨場感。経済原理的には、まず「視聴率」を考慮したこのような環境を整えることが優先され、競技の公平性を考慮するのはその後のこととなる。

THE MANZAIの工夫と問題点、あるいは別の方法

このことを考えると、「序盤低評価問題」は、もう「そういうもの」としてこれからもずっと有り続けるのかもしれない。つまり登場順による不平等は運の問題として処理し、運も競技のうち、ということで誰からも問題視されることなく、不可避的不平等として、水面下で大きな力を発揮し続けるのかもしれない。

しかし例えば予選順位上位から、コンビの意志でネタ披露順を決めていたTHE MANZAIのようなやり方もある。THE MANZAIはそれだけではなく、ブロック別のトーナメント方式を採用し、登場順による不公平の排除を試みている。しかしこの場合、実質的なファイナルラウンドが、あるブロックのファーストラウンドだったということになりかねないという問題を残している。さらに番組側が決勝の登場順を決定する権限を持ってしまうため、陰謀論が持ち上がる余地を与えることになってしまう。

とりあえず当面の結論が出たわけだが、最優先されるのが経済原理でなければ、もちろん様々な可能性が生じるはずで、録画放送だったり、映画祭方式の審査方法だったり、無観客で漫才をしたり、各審査員がそれぞれ異なる順番で各コンビの漫才を見たりなど。あるいは登場順1~3番は捨て枠として捉え、予選1~5位と6~8位を分けて、それぞれで登場順を抽選するとか(予選6~8位が登場順1~3番の抽選をする)。

漫才におけるジェンダーバランス

最後に、もう一つ。それは、漫才における女性の存在である。今年のM-1決勝にはコンビの一人が女性である相席スタートが出場し、いわゆる「女ネタ」を披露した(女ネタとは言っても後半は主に合コンを題材とした男性視点の内容ではあったが)。女ネタはどんなによく練られたネタであっても、どんなに笑いを取っていたとしても、賞レースにおいては評価されにくい。

事実、今回のM-1での相席スタートのネタは合コンという軽薄な題材にもかかわらず、ねじれを含みながら構造化された、話法としては非常に深みのあるネタだった*5。今述べたことは、彼女らのネタが面白かったということでも面白くなかったということでもない。

今回のM-1決勝の女性審査員は1人。割合で言うと20%。審査員の出身地や所属や世代が問題とされる中、性別が全く話題にならないのは不自然に感じられるが、単に時代が女性審査員を必要としていないというだけのことなのだろうか*6。20%で十分にジェンダーバランスが配慮されていると言えるのだろうか。あるいは「序盤低評価問題」のように、この問題もまたこれからも存続し続ける「不可避的不平等」とのようなものなのだろうか。反対に、審査員にほとんど女性が含まれていないということが、果たして女性コンビあるいは男女コンビに対する不平等として捉えられるべきなのだろうか。

「お笑いの世界は男の世界」とはよく言われることである。M-1でも男女コンビや女性コンビが決勝に進出するのは稀である。これは単に全若手お笑い芸人の男女比に左右されているわけではない。目分量で言うと、5:1といったところだ。しかしこれまでにM-1の決勝に進出した男女コンビ+女性コンビの割合は10%にも満たない。こうした事実から予選の審査員もまた、おそらくそのほとんどを男性が占めているのだろうと予測することは可能だろうか。わたしは可能だと思いながら話しているのだが、その確証性を示すものを知らないので、このことは疑問にとどめておきたい。

*1:秋元康、テリー伊藤、高須光聖、鈴木おさむ。

*2:2004年、島田紳助は暴行事件を起こし謹慎していたため審査員を務めることができなかった。島田紳助が審査員を務めないことを受けて、松本人志も審査員を辞退した。

*3:2001年のみ7番目~10番目。

*4:出場組は、番組途中で発表される敗者復活組を含めて9組。出場順は事前の抽選で決定される。敗者復活組は9番目の出場順となる。ファーストラウンドの上位3組が最終決戦へ進出し、進出組はもう一本ネタを演じ、そこから優勝者が決定される。審査員は7名。各審査員は、ファーストラウンドでは100点満点で採点し、最終決戦では1組に投票する。ファーストラウンドでは各漫才が終わる度に採点し、最終決戦は3組の漫才が終わった後に投票する。

*5:序盤、男から「振ってまう球」と間接的にブス宣言された山﨑が、「振る」=ストライク=いい女と都合よく解釈し、このことを理解しない山添に「分かってない」と滑稽なダメ出しをする。中盤からは合コン+野球コントが始まり、コントの最後、「振ってまう球」に手を出してしまった山添に、(男から「振ってまう球」と言われたと先ほど言っていた)山﨑が「なんであんな球に手出したんですか!」と自分のことではないかのように問う。「今どんな気持ちで言うてんの?」と山添。

*6:出身地、所属、世代、性別のすべてを考慮して審査員を選考する場合、適任者が限られるという問題が生じる。存在し、受諾するということが絶対条件なので、これらの要素の幾つかは偏らざるをえないのかもしれない(受諾についてはやり方次第で変化するだろうが)。