タコ:デザインの究極的な総合モデル、あるいは隠された視覚性

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目次


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タコが海の中で動いているところ、映像で見たことがないわけではない。泳いでいるところは見たことがあると思うし、捕食しようとしたり、されそうになったりしているところも見たことがあるはずだ。そういうときのタコは色が様々に変化していたような気がする。…それは一昨年?頃に流行ったダイオウイカだったような気もする。まあ、それでもタコの映像は見たことがあるはずだった。

しかし、今回このとても短い映像を見て、これまでタコの映像を見たことがあるとして、一体何を見ていたのだろうかと自分を訝った。

タコの胴体は頭の上にあるのか?

タコは頭のように見える部分が胴体になっている。そのくらいは知っている。タコが泳いでいる場面を思い起こすと、胴体が前、足が後ろでスーッと進んでいたような気がする。頭の上に胴体があって、頭の下に足がある。以下に記述するのは「その程度の知識しかない者がこの映像を見て何を思ったか」ということについてである。大げさに言うなら、わたしは「驚愕した」。

その程度の知識しかない者がまず思うのは、胴体は頭の上にあるのではなく、頭の後ろにあるということだ。ここでわたしの認識は、胴体が頭頂部の上にそそり立っているという一般的なものから、胴体は後頭部からぶら下げられているというものへと移行したわけだが、胴体が頭部とつながっている箇所だけを考えるなら、頭頂部から後頭部へと僅かに移動した程度のことだ。

この事実は、タコの身体の最上部に位置する器官が目であるということを意味している。

想像上の生き物よりもさらに奇抜な設計

日本の軟体動物研究の第一人者である奥谷喬司は次のように言う。

タコの体の設計は鼻行類にもまさる奇抜さを誇る。なにせ胴の下に頭があり、そのすぐ下に足があるのだ(奥谷喬司)
頭足類とは?

奥谷がこの文章で「胴の下に頭があり」と述べているのは、実際に頭が胴の「下」に位置しているということを言っているのでは決してなく、「鼻行類にもまさる」と形容される「奇抜さ」を強調するためであり、頭と胴、胴と足、足と頭の位置関係を読者に簡略に理解させるためである(「鼻行類」は架空の動物であり、そうした想像上の生き物よりも奇抜だと主張されている)。たぶん。

もしかすると、生物学上、「胴が頭の上にある」と言われることがあるのかもしれないし、ないのかもしれない。ただ、わたしがここで「タコの胴は頭の上にではなく、後ろにある」と言うのは、実際に映像で確認できる限り、タコが海底で辺りを見渡している様を見ると、そのとき胴は頭の後ろに、人間の女性の乳房のようにぶら下がっているからだ。

タコの各部位の位置関係を確認する

タコの各器官の位置を確認しておこう。今述べたように、タコの部位は大雑把には、胴体、頭、足(学術的には「腕」と呼ばれるらしい)に分けられる。多くの生物のように胴体から足が生えているのではなく、タコにおいては胴体も足も頭に付いている。

頭の表面には目と口があり、内部に脳が置かれているというのは人間に似ている。しかし、タコの8本(標準的には)の足は、口の周囲に、ほぼ均等な間隔で生えている。

ここは人間と大きく異なる。もし口の周囲に手足が生えている人がいたら、生活しにくいだろう。足の間にある開口部という意味では、肛門に似ていなくもないが、タコの場合はそこから食物を摂取する(ちなみにタコの肛門は、墨を吐き出す器官と同一である)。

目はワニのように、頭部の最も高い位置の左右に、側面を向くかたちで置かれている。二つの目の間の皮膚の直下に、頭蓋軟骨に囲まれた脳がある。実のところ、タコはわたしたちが思っている以上に高度な知能を有する生き物である。

地球上の全生物の95%を占める無脊椎動物の中でも最も頭がよく、脊椎動物である多くの魚や爬虫類よりも複雑な脳の構造をしている。彼らは一匹一匹個体差が大きく個性を持ち、簡単な意識と自己認識があり、体色を自在に変えることで複雑なコミュニケーションを行うことが可能で、学習能力も非常に高く、「遊び」すら行う。
「タコの教科書 その驚くべき生態と人間との関わり」リチャード・シュヴァイド 著 | Kousyoublog

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どっちがタコの「正面」なのか?

タコには明確な「正面」というものがないように思える。上下だけではなく前後も曖昧な生き物。もっと言えば左右だって怪しい。

泳ぐ際は胴体側に進み、海底を歩く際には胴体側にも胴体の反対側にも進む。さらには、決して横方向に進むのを苦手にしているわけではなく、足は口の周囲360度の中に均等に配分されているので、前後左右、斜めに至るまで、どの方向にも容易に進むことができる。目がレーダーのように身体の最も高い位置にあるので、身体がどこを向いていても、いつでもどの方向にでも視線を向けることができる。

このことは以下の映像などで確認することができる(1分40秒以降)。


オコゼとタコの出会いにビックリ!【水中映像】

わたしたちの一般的な感覚からすると、タコの胴体は元々垂直方向に頭の上にあると思われていたものが実際には水平方向に接続されているということなので、先程述べたように頭頂部ではなく後頭部に接続されている、つまりお団子ヘアではなくポニーテールのようになっていると思われるだろう。

しかし、前後が曖昧なのであれば、胴体が接続するのは頭の後ろではなく、頭の前だということも十分に考えられる。となると、あの胴体はポニーテールあるいはぬらりひょんの後頭部のようなものではなく、顔の正面、目と口のあいだから、つまり鼻の位置から飛び出しているものだということになる。

わたしたちの知らないタコのもう一つの外見

これを踏まえてもう一度タコの写真あるいは映像を見てみよう(水槽の中に実物がいれば、それで確認してもいいだろう)。

胴が頭の後ろではなく前にあると思って見てみると、これまでの認識とは大きく異なる、初めて目にするタイプの生き物がそこに姿を現す。それは頭の後ろの大銀杏のようなものではなく、まるでカバのようでもあり、カエルの喉の膨らみのようでもあり、顔の前に大きな袋をくっつけたやや間抜けな様相を呈している。

泳いでいる姿にしても、これまで背泳ぎのバサロのように仰向けで進んでいるように見えていたものが、突然自由形の、腹這いのバサロのように見え始めるのである。ムーミンの頭に直接8本の触手のようなものが生えている生物が前方に進んでいるように。

あるいは、タコにとって前か後ろかということは重要ではなく、「前後方向の一方ともう一方」ということでしかないのかもしれない。つまり前も後ろもなくなって、前後の対称性を失っているのかもしれない。もしそうであるならば、それは未だ対称性を経過したことのない種における対称性の不在なのではなく、一度対称性を獲得したにもかかわらず、それを放棄したことによってそうなっているのではないだろうか。


Octopus Beauty, Ocean Animal, Octopus Ride HD

「デザイン」のシンプルなモデル

タコの身体の構造を見ていると、ある意味で非常にシステマティックに、各部位の配置の自由度や、それぞれの部位のカスタマイズに思いを馳せてしまったりするかもしれない。

一般的なイメージにおける動物であれば、脳や目によって構成される頭、心臓や肺や胃腸などを内蔵する胴、捕獲や移動のための腕や足を持つことが想像される。これらをどのように接続するか、条件に応じてどのようなかたちがあり得るのか。あるいは、感覚、神経、呼吸、消化、泌尿などの各器官の配置なども含めて、どのような構成が生存における安定を作り出すのだろうか(例えば、タコの尿や便の排出口〔漏斗〕は頭の横、人間で言えば首の位置にある)。

タコの身体構造は、あたかもこうしたことの理想的なモデルのようであり、わたしたちに際限のない可能性を感じさせる。いわゆる「デザイン」(あるいは「工学」でもいいかもしれない)ということの総合性についてのシンプルな見本であるようにさえ思われる。

文化によって許可された通りすがりの視覚性

改めて思うのは、わたしはタコをこれまで動物として認識していなかったということだ。もちろん動物であるということは知っているのだが、人間が活動するように(「人間の活動のように」ではなく)タコが活動しているとははっきりと想像できていなかったというか。そのようなことを考える機会すら持ったことがなかったのかもしれない。

足は切られても動いていて、茹でると足が裏返って丸くなり、まれに大型のものが捕獲されたとかで地面に伸ばされたり、スーパーでは不明瞭な姿でパックに詰められて売られている。イラストでは漏斗が口のように描かれ、目が頭にではなく胴体に描かれ、宇宙人のモデルになったり、春画の中で女性に絡みついたりする。

こうしたことはすべて「人間の文化」の中でのみ「見えるようになる」事象である。通りすがりに目にするだけのわたしたちに許されているのは、「見えることが許可されたもののみを見る」ということであり、それ以外の視覚性については立ち止まらなければ触れることができない。

しかしわたしたちはしばしば意図せず立ち止まっていることがある。例えば、今挙げた「見える」事象の中で、パック詰めにされたタコの形態の「不明瞭さ」を認識するとき、あるいは地面に伸ばされたタコの馴染みのないディテールをを認識するとき、わたしたちは一瞬立ち止まっている。それでも世界の傾向はすぐにわたしたちを通り過ぎ去らせようとするだろう。そして、立ち止まり続けるには意志を要請しなければならないだろう。

「飼いならされた」タコを野生にかえす

普段のわたしたちにとって、タコは基本的には飼いならされた表象としてわたしたちに関係している。もちろんそれはタコに限ったことではないのだが、タコは動物としての活動を認識されることもなく、多くはフィクションにおけるステレオタイプであるか、食材であるかのいずれかだ。

tamineko.hatenablog.com

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タコがフィクションにおけるステレオタイプになりえたのは、その特異な身体構造や、墨を吐いたり8本の足を絡めて捕食したりする際立った特徴に起因するだけではなく、具体的な生態が一般的に知られていないということも関係しているのではないだろうか。

もしわたしたちがタコの動物としての活動を認識するならば、確かにフィクショナルな存在としてのタコ、あるいは食材としてのタコ以外の、活動者としてのタコという新たなヴァリエーションを獲得するのであろうが、そのときわたしたちはそこに動物に対する人間的把握を投影することになるだろう。そして瞬く間に強固な「文化的な視覚性」に覆われてしまう。

事象を「通り過ぎる」ことによる文化的な視覚性の中では、タコは人間の管理下に置かれた家畜のようなものの一つとなる。しかしわたしたちが僅かに、ほんの僅かに立ち止まりさえすれば、タコはいつでも容易にその隠された姿を開陳するに違いない。


タコの教科書

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日本のタコ学

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